2001年11月30日

11月19日 (Mon)~11月30日 (Fri)

月末にスペクタクルの仕事でソロ。今回は風呂桶の中に入ってテューバを吹くという、おそらくもう2度とないであろう経験をする。
 来月頭にあるカーゲルのコンサートと学校の卒業生オケの練習。合間に書類等の雑事(…)。「voix captives」の譜読みはなかなか進まなくって少しイライラする。一回仕組みがわかって暗譜しちゃえばなんてことは無いんだけど、そこまで持っていくのに一苦労する。
 またまた脇道にそれた話だけれど、テューバという楽器はそのオーケストラでの性質上、音色というものにすごく重点を置いた教育が(おそらくワールドワイドに)行われている。僕も音色についてはしょっちゅう(というかこの10年くらいずっと)言われ続けているんだけど、誤解を恐れずに敢えて言うならばいささか「音色偏重主義」のきらいがあると思う(このことに関しては僕自身決して否定的なわけではない。寧ろ肯定しているし、その理由については後で述べる)。自分の問題点については勿論100%承知した上での考えなんだけれども、例えばクラリネットやヴァイオリンに比べてオーケストラや室内楽で「演奏」している経験、ありていに言えば(小節数を数えるということなく)演奏している時間、つまり演奏経験の蓄積は、同じ10年間を過ごしていても、というより寧ろ年月が経てば経つだけ恐ろしいくらいの差が出てくると思う。
 もちろんオーケストラの中でのテューバの仕事を想定した場合、その少ない「演奏する」場所を如何に効果的にするか、というポイントにおいて先ほどの音色主体の考え方は100%正解だと思う。極端な話全音符が一個ある場合にはそれがどんなに美しいか、その音楽にそった音色であるかが問題だからだ。だがそういった経験からすこし外れた音楽、例えばある種の現代音楽のようなすこし厄介な楽譜が目の前に現れたときに、先ほど述べたほかの楽器との音楽的、テクニック的な経験差がはっきり出てくると思う。「これは難しすぎる」「テューバで演奏することはできない」といった言い分はそういったある種の現代音楽の譜面を前にしたときによく聞くんだけれど、こういった場合そういったテクニカルな部分においての経験不足、音楽解釈の経験不足が表面化しているだけのことではないだろうか。確かに楽器の特性上機動性(=テクニック、といっているわけではなく、ひとつの例として)はほかの楽器と比べていささか劣るかもしれないけれども、非情な事を言えば聴いている人々はそんなことは知ったこっちゃ無いのである。そういう不利な点があるならば尚更解決しなければならないはずだ。そういう考えもあって本当に今更ながらだけれども基礎的なテクニックに焦点を当てているわけだ。「あいつはテクニックはあるけれど音がねぇ。」とか「音色はとてもいいんだけれどテクニックないよなぁ。」って言う意見は良く聞くけれども、本当は音色とテクニックを併せ持つフレキシビリティが無ければダメなのだ。少なくともプロとしては。
……練習しなきゃなぁ。……

まとめ

(追記:2004年12月)何故かここのまとめが先月と同じだったので、改めて。
 この辺りから日記が月間になり、その内隔月間になり…とダメスパイラルに陥っていったわけだが、上達度というのはまあそんなに毎日毎日変化するものでもない、ということだ。ある場合には一つのスキルを得るために何回と繰り返しを要求され、自分にダメ出しをし、トライ&エラーを経て漸く階段を半歩上がる。寧ろそういうケースのほうが多いのかもしれない。と自分を弁護してみましたが言い訳ですかそうですか。

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