2004年11月 8日

まるで~だ。

まる‐で[副]

  違いがわからないくらいあるもの、またはある状態に類似しているさま。あたかも。さながら。
  例:「他人の日記サイトの更新には厳しいくせに、自分のサイトはまるで借りてきた猫のように静かだった。」

8月某日。
「最近(ていうか5月からだけど)練習日記更新してませんよね。」
「なんかバタバタしちゃってて。そのうち再開するつもりだけど。まあ自分のための日誌でもあるし、次アップするときは『俺の日記だ、更新が遅くて文句あるか』とか煽り気分満載で始めちゃったりして。」
「あ、それ必ずやってくださいね。」
「やるやる。」
…と宣言してはや3ヶ月。なんかもう煽るとかどうとか言っている場合じゃないような気が。

というわけで、再開なのかまた2月くらいまでほったらかすのか全く自信は無いけれど、取り敢えず備忘録としての役割もあるので、予定表を引っ繰り返しながら思い出す。しかし毎日更新してる人って凄いよな。

5 月。ヒンデミットのソナタを集中して練習していたので、学校の機材を使わせてもらって録音。編集もしてもらって一応綺麗な形にまとめてみたものの、やはり色々と自分の出来に不満。ちょうどマウスピースを変えてもう何が善で何が悪なのか判らないような感じだった。(サイズから何から全く別物に移行したのと、また個人的に反応が鈍いのもあるんだろうけれど、この件に関してはここ最近漸く慣れてきた、というのが現状。)
 続いてルーアンのオケでブラームスのドイツレクイエム。合唱の入っているオケ物はいつもの音程の問題に加えて合唱のバスとの音程、バランスの問題が出てくるので単純な音符のわりにデリケートな事が多い。3番トロンボーンとユニゾンになることも多々あるので、なかなか勉強になることが多かった。

6月。前半はアマオケのトラと鈴木純明「落ち着かないブルドン」の再演。オケのほうは「韃靼人の踊り」とか「スペイン奇想曲」といったポピュラーなもの。定番のプログラムというのは意外とやる機会がなかったので楽しかった。ちょっと変わったプログラムだったのはブラームスの「埋葬の歌」作品13。混声5部及び管楽器とティンパニ伴奏という編成。葬送音楽には(機会音楽ということもあって)管楽合奏という形態はしばしば見受けられるのだけれど(ワーグナーの「ウェーバー『オイリアンテ』の動機による葬送音楽」など)、ブラームスも作曲しているのは知らなかった。因みにちょっと検索してみると、ブラームスにはシューベルトの歌曲のピアノ伴奏を管楽用編曲したものもあるらしい。こういうのばっかり集めて演奏会してみたら面白いんじゃないかとは思うけれども、「葬送」とか「埋葬」とか「勝利」とか「革命」とか、そんなんばっかりになってしまいそうな予感。
 
「落ち着かないブルドン」の再演に当たっての練習は大体思い通りだったのだけれど、本番で思わぬ落とし穴が。諸事情で今回はモニター(パッチをキチンとした順番で正しい位置で動作させているかを確認するディスプレイ)なしでやろうということになって、練習までは上手くいっていたのだけれど、本番の最中各場所でずれてしまった。
問題点。
1.パッチを動作させるフットスイッチはものによって、ちゃんと押したか押していないかがはっきり判らない。
2.その場合は本来モニターがあれば確認し、a.次のイヴェントとの兼ね合いによっては放置するなり、急いで押すなりの対処をする。b.会場のテクニシャンなり作曲家が手動で補正するのを待つ。といった手順を踏む。
しかしながらモニターがない場合にはこの辺りの判断が非常に曖昧になってしまうわけで、じゃあ経過時間で自動的にパッチが変わるようにしようとか、全てをテクニシャンの手動に委ねるとか、そういった解決法もあるんだけれど、そうしてしまうと今度はリアルタイムで奏者の自由度に合わせる、という考え方はどうなっちゃうのよ、という別の問題も出てくる。「間違えずに押せ」といわれてしまうと辛いが、100個近くのイヴェントを操作するに当たって、フットペダルを使って練習できる環境が2回とかになってくるとこれまたきつい。
さしあたっての解決法は、自分が信頼できるフットペダルを自前で購入、ということになるのかもしれないが。
6月後半からは劇。